【机上の空論】にどりやのメモ帳

世の中の現象や出来事は頭の中でも起きている。

「今度は福島がTOKIOを応援する番だ」で福島は叩かれた

ツイッターでこんな言葉が流行し、この言葉と共に福島がTOKIOのポスターをはがしたことについて批判されました。今となっては山口がTOKIOを脱退し福島がTOKIO起用の継続を決定したので早くも使い道のなくなった感じのする言葉です。この言葉は一体何だったのか、そしてなぜ福島がTOKIOのポスターをはがしただけで批判されたのか。考えてみれば、結局は福島を叩きたかっただけだったという事がわかります。

TOKIOは山口を除く4人を指すのか?

山口は既に脱退したので今後この言葉が使われたとしたら山口以外の4人を指すことになります。では脱退が決まる前に使われたこの言葉に山口が含まれるのでしょうか?グループとしてTOKIOと呼んでいるだけなのですから、山口を入れて5人を指していたと考えるのが普通でしょう。というか、そもそも前提として「TOKIOは福島を応援した」のであり、それは山口も例外ではありません。そのことを考慮すれば、逆に「福島がTOKIOを応援する」と言った場合のTOKIOは同様に山口も入るべきであると言えます。もし山口の強制わいせつを理由にTOKIOとして応援できないと言うのなら、福島が山口のいるTOKIOのポスターをはがしたことを批判できるはずがありません。もし山口が残っていたとしても様々なコンテンツで山口が使えなくなることは容易に想像できます。それと同じことを福島もしただけです。いや、むしろ公である福島こそが山口のいるTOKIOの起用を中止するべきだったのです。

なぜ福島がTOKIOを応援するべきなのか?

福島がTOKIO起用を中断したとき「恩を仇で返す」と言われていましたがそれはなぜでしょうか?繰り返しますが山口が強制わいせつを起こしたからTOKIOとして応援できないと言うのなら、その山口が入っているポスターをはがすのは当然です。山口を応援せずにポスターを残すなど無理な話です。
「仇で返す」という言葉の辞書的意味は「害を与える」という事です。しかし明らかに福島はTOKIOに害を与えていません。福島がポスターをはがしたからといってTOKIOの復活が難しくなる事はありません。むしろこの件については福島が被害を受けています。実際に山口のいるTOKIOを応援するべきでないと言う正当な意見もあるのですからそのままTOKIOを起用していたらその方から批判を受けるのは当然です。
それでも福島がTOKIOを応援するべきだと言い張るのはやはり「TOKIOは福島を応援した」という前提によるものでしょう。しかし、TOKIOが福島の風評を払拭した事と強制わいせつをしたメンバーのいるTOKIOの起用を続けるべきかは別問題です。その別問題でTOKIO起用の中止を批判されてしまうのはまさにとばっちりです。

 

「今度は福島がTOKIOを応援する番だ」は福島を叩くための言葉だった

結局TOKIOを応援するために生まれたはずのこの言葉は、TOKIOの応援を福島に押し付け、さもなければ福島を叩くための言葉に成り代わってしまいました。

この現象は次のような心理によるものだと思います。
・大好きなTOKIOが窮地に陥ってしまう。
・しかしその原因はTOKIO自身にあるとはっきり言えない。
(山口個人の問題だとしても)
・恩を売ってやったあの福島もTOKIOを切り捨てようとしている。
TOKIOを切り捨てた福島は敵だ。
この「福島」という県知事に代表されるような上位概念の存在が打ち倒すべき権力の象徴としてぴったりです。つまり偉い人が不祥事を起こしたらそれを叩くようなノリに非常に近いものです。
TOKIOを応援するのは自由です。しかしそのために福島が犠牲になってしまうのは震災からの2次被害みたいな形になってしまいとても残念です。