【机上の空論】にどりやのメモ帳

世の中の現象や出来事は頭の中でも起きている。

N国の立花がやばかった

マツコがMXの番組でN国の立花と有権者に対して否定的な発言をしたことにより、立花はMXとマツコに激怒し反論を求めていますが、その展開が「ひどい」という話です。

弱者の代弁者であろうとする手法

まず立花が言うには、「自分のことを言われるのはいいが、支持して下さった有権者の皆様を悪く言うのは許せない」とのことですが、この「いかにも弱者を代弁して強者のマツコと闘っている」感じを出そうとしているのは、私にとっては気持ち悪いです。ところがメンタリストのDaigoによれば、まさにこの手法が多くの支持を得る効果的なやり方なのだそうです。いやそれはないだろうと思いたいところですが、実際この手法で一定数の支持を得ているようなので、本当にそうなのでしょう。

立花の支持者に多い主張 

ただ本当にこの手法に乗っかって立花のマツコ攻撃を支持しちゃう方はおかしいんじゃないかと思ってしまいます。この方達の主張はだいたい同じで、「影響力のある人」が「公共の電波」で「一方的」に批判しておきながら「反論」をさせないのは「公平・中立に反する」というものです。…が、別にいいと思います。そもそも発端になったマツコの発言がそんなにひどい内容だとは思えません。冷やかしで投票したと言うのは予想であることが明らかですし、気持ち悪いと言うのもただの感想です。データを示せとは言いますが、いちいちデータを示すような話題でもないし、N国が一定の票を集めたと報道をしておいて、一方ではマツコという個人はN国を気持ち悪いと思っている、ということがわかって良いのではないでしょうか。

 マツコは放送法4条に違反していない

また、MXやマツコ攻撃を正当化する必殺技として「放送法4条に明らかに違反する」というものがあります。しかし放送法4条は放送事業者に関する決まりなので少なくともマツコが放送法4条に違反するということはあり得ません。実際、立花は「MXは放送法4条に違反」とは言っていますが、「マツコが放送法4条に違反」とは言ってません。ところが不思議なことに立花を支持する者の中に「マツコが放送法4条に違反」という者がある程度存在し、その事がデマとして広がってしまっているのです。「この際、支持者の認識に間違いがあろうとマツコ攻撃が盛り上がればよし」と考えているんじゃないかと思いますが、これこそが立花の勧める直接民主制の恐ろしいところです。

 MXは放送法4条に違反していない

それでは、MXが放送法4条に違反している事には変わりないのかというと、全くそうは思いません。放送法4条が求める公平性は、政府見解によれば「国論を二分するような政治課題」についてであって、政治的な話題のすべてではないからです。
 
「N国の支持者は冷やかしなのか」や「N国は宗教っぽいのか」という問題が「国論を二分するような政治課題」である訳がありません。これに当てはまるものと言えば、やはり大阪都構想でしょう。これに関してはまさに公平性という観点から報道の在り方についての議論が交わされたことがあります。N国絡みで言えば「NHKのスクランブル放送」です。だから、もしMXがNHKのスクランブル放送についてあまりに偏った議論を放送してしまえば、そこで初めて放送法4条に違反したと言えるのです。したがってマツコのN国に対する発言は、いつもどおりの発言として片付く問題でしかないのです。

杉田水脈の生産性のない論点

まとめました。

擁護側の意見

  • 「生産性という言葉は必要なかった」
「暴言と捉えられかねない内容だが、それがなかったとしても主張は成り立つ。生産性は批判のために切り取られた」というもの。杉田は今回の件以外においても「生産性がない」と発言している。少なくとも杉田にとっては必要な言葉である。したがって「全文を読めば内容は穏やか」だからといって「生産性がない」という言葉をかき消すことはできない。
 

杉田が今回の件で主張した内容について

  • 特定の政策について語っていない
「(LGBTに対して)特別扱いをするべきでない、支援の度が過ぎる」というが、一体何のことだろうか。例えば渋谷の条例のことを指しているのならそれを示すべきだし、そうでないのなら具体例を示すべきである。LGBTが抱える問題としてよく言われるのが賃貸契約、病院での面会であるが、それらが必要ないと言いたいのならばそれこそはっきり言うべきである。具体例を示さないでいるから論点がどうしても差別になってしょうもない議論になってしまうのである。

 

 

杉田水脈の自然科学に基づく政治的主張について

杉田水脈LGBTは生産性がない」


これはどのような意図なのでしょうか?簡単なまとめによると、「LGBTは子供を作らない」「だから生産性がない」「故にLGBT支援に税金をかける事が疑問」というものだそうです。

さらにそれを裏付ける理論の一つとして、「男女で子供を産むのが自然の摂理」と主張していました。

この一連の主張が妥当なのかどうか考えてみました。

杉田理論の論点

杉田の主張の詳細は知りません。ただのヘイトである可能性もゼロではないのですが、おそらく最終的にはLGBTに関する税金の使われ方について論じたかったのだろうと思います。したがって「生産性と税金の使われ方」、「自然の摂理と税金の使われ方」が論点になるかと思います。

生産性と税金の使われ方

杉田によると税金は生産性のために使われるべきだそうです。もちろんここで言う生産性とは子供を産むことです。言い換えると「日本は常に人口を増やし続けるべきだ」ということです。労働人口が少ないと言われているので、それなら増やそうという考えもあるでしょうが人が多いからといって全ての生産性が上がる訳でもないので別に増やし続けなくてもいいのではないかと思います。


また男女平等の実現として内閣が推進している男女共同参画はどうでしょうか?男女の役割が均等化されるのですから「産む」という役割は薄れていきますがこれでは生産性は落ちてしまいます。このことについては少なくとも杉田は理解しているはずです。なぜなら杉田は「男女平等はあり得ない、男女別に役割がある」と言っていたからです。その男女共同参画に年間8兆~10兆円使われていますのでLGBTがどうとか言っている場合ではありません。

自然の摂理と税金の使われ方

LGBT支援の問題について杉田が打ち出したもう一つの理論が自然の摂理です。男女で惹かれあうのが自然とは言いますが、LGBTだって自然に生まれた存在です。自然に生まれた存在が自然の摂理に反するというのですからおかしな話です。それともLGBTが排除されるのも自然の摂理であって、それに従うべきだと言いたいのでしょうか?自然界にも同性愛は発生しますがだからといって排除される存在であるとは限りません。

 

そもそも税金は国民のために使われるものと思っていたのですが、自然の摂理に従わなければならないという考え方は斬新でした。税金自体が自然の摂理に反している気がしないでもないのですが…

 

自然科学に基づく政治的主張

杉田の主張は結論だけを見ればそれほどおかしくはなかったはずです。わざわざLGBTを特別に支援する必要はないだろうと思う人は多いでしょう。ですがそれはまさに思想の問題でしかありません。その思想を正当化(間違ってもいないが)するために科学的に説明しようとするからおかしくなったのです。

ナチスの優生思想にもつながりかねない」などという批判がありますがまさにその通りだと思います。ナチスの優生思想はそれを裏付けるために尤もらしい科学で説明しようとしました。杉田も同じように「生産性」、「自然の摂理」といった科学的な言葉を使って大衆を納得させようとしたのです。確かにLGBTには生産性はなく、そういう意味では自然の摂理に反しています。ただし自然の摂理の結果としてLGBTが生まれたという現実を無視しています。
このように現実を無視して頭の中で練りに練った、その頭の中では正しい理論を大衆に共有させようとしたのが杉田であり、優生思想を生み出したナチスでもあるのです。

頭の中だけで作られた理論を押し付けるなんて誠にけしからん事であります。

LGBTのトイレ問題に関する議論のあり方

LGBTトイレについての批判

LGBTトイレがその当事者によって批判されています。どういう批判なのかというと「入るとLGBTと見られる」「差別助長になる」だそうです。これが批判と報道されているようですが実際は苦情といった方が近いでしょう。新しくトイレを作っただけで差別が助長される訳がありません。

 

そしてこのLGBTトイレを作った大阪市もこんな事で解決される訳がないと批判されています。中には大阪市が「LGBTトイレ」という名前にしたと勝手に決めつけて、そのネーミングについて批判するというぶっとんだ意見もあります。そもそも「LGBTトイレ」と名付けたのはこの問題を報道するメディアです。大阪市ではニュース記事の画像にもある通り、「Gender Neutral Bath room」という表示しています。これは「性別の区別のないトイレ」という意味の名前であって、LGBTトイレという名付けられたトイレではないことがわかります。大阪市内部では通称として呼んでいる可能性もなくはないのですが、結局は「なんかステッカーを貼った多目的トイレ」ということになっているのでネーミングについて批判するなら相手は大阪市ではなくメディアの方です。

 

大阪市では「多目的トイレ」と呼んでいます
http://www.city.osaka.lg.jp/shimin/page/0000397620.html#8
大阪市

 

LGBTトイレ」と呼んだのはメディアの方です。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018051900135&g=soc
時事通信

 

 多目的トイレにLGBT表示をする意味

それにしても多目的トイレに虹のステッカーを貼ったり、あるいは男女を混ぜて作ったシンボルを付けただけで「LGBTトイレ」になるというのもおかしな話です。わざわざそのようにしたのは、基本的には車いすの方や乳児の利用など多目的トイレを使ってもいい事情として「LGBT」を加えたからなのでしょうか。だとすれば「差別助長」というのも一応無理のない話です。LGBTは足腰が弱かったり、あるいは排泄に問題があって普通のトイレを利用することができない人間だと言っているようなものですから。しかしそんな風に思っている人はこの世にいません。

 

またLGBTを表すシンボルの意味もよくわかりません。「多目的トイレ」ですから性別は関係ありません。したがって、性別、あるいはLGBTを表すシンボルなど付ける必要はないはずです。特に虹のステッカーは理解不能です。確かにLGBT団体は虹が象徴であるとしていますがL,G,B,Tをひとくくりにしていいのかという問題もありますし、虹を掲げるLGBT団体の実態も不明です。というのもLGBT団体は天皇制なるものを反対するデモをやっていました。これはつまりLGBT団体がL,G,B,Tをひとくくりにして、さらにこれに属するが故に自分は反日であると訴えてることになります。万が一、そんな虹だったらトイレに掲げるのではなくトイレに流すべきです。

 

実際にどんな苦情が上がったのか

さて、そのLGBTが言っているらしいトイレの苦情は果たして正当なのでしょうか。普通に男女別のトイレを利用すればいいものをそうしない人間といえばTのトランスジェンダーでしょう。この時点でLGBTとひとくくりにする、つまり多目的トイレに謎の虹ステッカーを貼ることは適切でないとわかります。そしてTにとって利点があると言えば性別に無関係という事でしょう。ネットでは必要がなければ自分の性別を隠したりすることもあるかと思いますがその現実バージョンと言えばわかりやすいと思います。なのでトイレの苦情というのは、Tが別性のトイレに行けないがだからといって虹ステッカーのトイレでLGBTだと思われたくないということでしょう。

 

「対案」の求め方

行政に苦情が出た場合に真っ先に出てくるのが対案の要求でこの問題も例外ではありません。しかしLGBTトイレ問題の場合は、対案を出す必要はなく、求める事自体が差別になります。その理由は二つあります。

 

一つ目は、頼んでいないからです。LGBは元々男女別のトイレで十分であって、もしトイレについて要望を出す人間がいるとすれば T です。対案を出さないという理由でLGBTをひとくくりにして批判するのはそれこそ偏見です。LGBにとってはとばっちりです。

 

次に二つ目です。
まず、議論とは二つの違った立場が対立する事によって始まるものです。その議論の結果はどちらかの主張が全面的に通ることがあるかも知れませんが、二つの立場の間をとった結論という形で妥結することもあります。今回の場合、片方の立場は男女別のトイレ(及び多目的トイレ)です。ではトイレと言えばそれしかなかったのかというと当然そんな事はありません。住宅のトイレや小さなお店のトイレ、避難所にある仮設のトイレのように男女共通で使えるトイレもあります。男女の区分けで考えた場合、どちらの方式が都合がいいのかは明らかで、いわゆるLGBTの要望を聞くとしたら後者になります。簡単なことです。しかしそうでないトイレに適用する事が現実的でないのが問題であり、だからこそこの二つの違った立場で議論が起きるのです。そして新しい提案が必要であるとすればこの二つの間に存在するわけです。議論において、その新しい提案をどちらか一方だけに求めるのは不公平です。したがってLGBT「だけ」に新しい提案を「対案」として求めるとしたらそれは差別なのです。


興味がない、必要性がない、緊急性がないなどの理由があって解決策を提案しないのであれば、それも良いかと思います。ただしこの問題に取り組もうとするのならLGBTであろうとそうでなかろうと平等な立場ですので、「対案がない」ことを口実に批判するのではなくどこまでの対策が現実的なのかを考えるべきです。

「今度は福島がTOKIOを応援する番だ」で福島は叩かれた

ツイッターでこんな言葉が流行し、この言葉と共に福島がTOKIOのポスターをはがしたことについて批判されました。今となっては山口がTOKIOを脱退し福島がTOKIO起用の継続を決定したので早くも使い道のなくなった感じのする言葉です。この言葉は一体何だったのか、そしてなぜ福島がTOKIOのポスターをはがしただけで批判されたのか。考えてみれば、結局は福島を叩きたかっただけだったという事がわかります。

TOKIOは山口を除く4人を指すのか?

山口は既に脱退したので今後この言葉が使われたとしたら山口以外の4人を指すことになります。では脱退が決まる前に使われたこの言葉に山口が含まれるのでしょうか?グループとしてTOKIOと呼んでいるだけなのですから、山口を入れて5人を指していたと考えるのが普通でしょう。というか、そもそも前提として「TOKIOは福島を応援した」のであり、それは山口も例外ではありません。そのことを考慮すれば、逆に「福島がTOKIOを応援する」と言った場合のTOKIOは同様に山口も入るべきであると言えます。もし山口の強制わいせつを理由にTOKIOとして応援できないと言うのなら、福島が山口のいるTOKIOのポスターをはがしたことを批判できるはずがありません。もし山口が残っていたとしても様々なコンテンツで山口が使えなくなることは容易に想像できます。それと同じことを福島もしただけです。いや、むしろ公である福島こそが山口のいるTOKIOの起用を中止するべきだったのです。

なぜ福島がTOKIOを応援するべきなのか?

福島がTOKIO起用を中断したとき「恩を仇で返す」と言われていましたがそれはなぜでしょうか?繰り返しますが山口が強制わいせつを起こしたからTOKIOとして応援できないと言うのなら、その山口が入っているポスターをはがすのは当然です。山口を応援せずにポスターを残すなど無理な話です。
「仇で返す」という言葉の辞書的意味は「害を与える」という事です。しかし明らかに福島はTOKIOに害を与えていません。福島がポスターをはがしたからといってTOKIOの復活が難しくなる事はありません。むしろこの件については福島が被害を受けています。実際に山口のいるTOKIOを応援するべきでないと言う正当な意見もあるのですからそのままTOKIOを起用していたらその方から批判を受けるのは当然です。
それでも福島がTOKIOを応援するべきだと言い張るのはやはり「TOKIOは福島を応援した」という前提によるものでしょう。しかし、TOKIOが福島の風評を払拭した事と強制わいせつをしたメンバーのいるTOKIOの起用を続けるべきかは別問題です。その別問題でTOKIO起用の中止を批判されてしまうのはまさにとばっちりです。

 

「今度は福島がTOKIOを応援する番だ」は福島を叩くための言葉だった

結局TOKIOを応援するために生まれたはずのこの言葉は、TOKIOの応援を福島に押し付け、さもなければ福島を叩くための言葉に成り代わってしまいました。

この現象は次のような心理によるものだと思います。
・大好きなTOKIOが窮地に陥ってしまう。
・しかしその原因はTOKIO自身にあるとはっきり言えない。
(山口個人の問題だとしても)
・恩を売ってやったあの福島もTOKIOを切り捨てようとしている。
TOKIOを切り捨てた福島は敵だ。
この「福島」という県知事に代表されるような上位概念の存在が打ち倒すべき権力の象徴としてぴったりです。つまり偉い人が不祥事を起こしたらそれを叩くようなノリに非常に近いものです。
TOKIOを応援するのは自由です。しかしそのために福島が犠牲になってしまうのは震災からの2次被害みたいな形になってしまいとても残念です。

 

TOKIOを応援するためなら風評を流してもいい?

今回のTOKIO山口の事件で騒ぎが無駄に広がっています。騒ぎの中には風評っぽいものもありましたので少しでも落ち着いてくれたらと思って書いてみました。

 

幹部の対応

山口という個人の罪によって信頼が損なわれしかも交代がきかないという一般社会から離れた芸能界の特殊性ゆえに事務所の責任は大きいです。しかし事務所のトップが出てきて謝罪をしないのはジャニーズに限ったことではありません。今まで幹部の謝罪を求めていなかったことを考えれば今回の山口の事件の場合だけジャニーズ幹部は謝罪するべきという評価は風評です。


ただし幹部が謝罪するにしても結局はTOKIOも謝罪することになるのですから、もし事情を把握していたのなら山口が言わない以上は事務所の方からTOKIOに伝えるべきだっただろうとは思います。

 

農業差別?

山口はこれから農業をするべきと言う人が一部います。農民がアイドル活動ができなくれば農業をやっていればいいだろうという考えもなくはないと思いますが、あたかも農業をすることが罰であるかのように言っている気がします。しかし農業も立派な仕事です。このような意見を農家が見たらどんな気分になるのでしょうか?

 

以前、死刑の是非をビートたけしが語るときに死刑ではなく畑で働かせればいいというような事を言っていました。死刑なのに外で働けるって普通の懲役よりも待遇良くなってませんか?


農業という仕事を罰として与えるその発想は農民を奴隷のように見ている感じがして不愉快です。

 

「今度は福島がTOKIOを応援する番だ」

TOKIOが福島の応援を始めたのは福島が窮地に立たされたからなのですがその福島が窮地に立たされたのは福島自身の問題ではありません。しかし今回の件はTOKIOの自業自得の問題で、松岡の言葉を借りれば勝手に崖の下に落ちたのです。それを今度は福島が応援しろと言うのですから、いくらなんでも理不尽です。

 

風評被害を払拭してもらったからポスターをはがしてはいけない」の理屈もどうしても理解できません。山口がいたから使わないと判断しただけであって、いたって普通の事です。そのポスターをはがしたことがまるで悪い事であるかのような風評を流して一体何が嬉しいのでしょうか?そのような風評が許されるなら最初からTOKIOの応援もいらなかったということになります。

 

TOKIOのファンは応援したければ普通に応援すれば良い事です。TOKIOの応援をしたいからといって福島の風評を流す人達には負けてほしくない。そういう意味で自分は福島を応援したいと思います。

TOKIOメンバーの謝罪を批判します

TOKIO山口達也メンバーが起こした強制わいせつの事件について、同じくTOKIO国分太一メンバーが謝罪していたのですが、この時に事件とは関係のない福島県産の野菜について言及されたことが話題になっています。メンバーが起こした強制わいせつの謝罪の場で福島県産の野菜を宣伝していたのです。しかしこの野菜アピールについては「本来ならば」許されないことであります。そもそも山口達也メンバーが事件を起こしたことによってイメージ的な意味でTOKIOの信頼が損なわれたからポスターがはがされたはずです。それにもかかわらず国分太一メンバーはTOKIOとして野菜アピールを続けたのです。山口達也メンバーの謝罪にあった「またTOKIOに戻りたい」という言葉に対しては「そのような段階ではない」、「反省していない」などの批判があるようですが国分太一メンバーはポスターがはがされてもかまわずに野菜アピールをしてよかったのでしょうか?確かに国分太一メンバーは事件を起こしてはいませんがTOKIOは「メンバーが事件を起こしたグループ」です。であるならたとえ事件を起こした本人でなかったとしてもTOKIOとして野菜アピールをすることはできないはずです。それが連帯責任です。

 

そうは言っても国分太一メンバーだけでなくTOKIOは強い思い入れがあって応援しているわけですからこんな批判をしてしまうのは野暮だろうということはわかります。しかしそれだったら山口達也メンバーの謝罪にいちいち突っ込むのも野暮だろうと思います。謝罪をいちいち批判するのは野暮だからと我慢しておきたかったところですが山口達也メンバーの謝罪だけが批判されていたので、それならばということで連帯責任のある国分太一メンバーを批判してみました。国分太一メンバーが謝罪の場でやったことは山口達也メンバーと同じですから。

 

そしてもう一つ野暮なこと。これは他のメンバーにも言えるとは思いますが特に城嶋茂リーダーの謝罪についてです。城嶋茂リーダーは番組の謝罪で山口達也メンバーを責めていましたが、これは一般社会であり得ることなのでしょうか?目上だろうが目下だろうが、同じ組織のメンバーが外に迷惑をかけたことを謝罪するときにそのメンバーを責めるなどという光景を見たことがありません。組織のメンバーとして謝罪するのに「あいつはダメな奴なんだ」と切り離したように責めることが理想の謝罪であるなら別にいいのですが。ただこのような光景にはどうしても違和感があるのです。芸能界は敵を作り出すような表現が好まれるのでその慣習が染みついた結果なのかなと思います。

 

最後に、強制わいせつが非親告罪化されたので山口達也メンバーは厳密にいえば「容疑者」なのですが強制わいせつそのものの話題でなかったことと、実際に山口達也メンバーを応援する方もいますのであえて「メンバー」という敬称を使わせていただきました。そして国分太一メンバー、松岡昌宏メンバー、長瀬智也メンバーそして城嶋茂リーダーにはなんとかしてTOKIOを存続させて欲しいと思います。